夢の可能性を広げるために〜三男の小学校の卒業式で

桜の花 ライフ
桜の花

三男の小学校の卒業式でした。前日まで冷え込んだものの、当日はポカポカ陽気でとても暖かく、彼らの巣立ちをお天道様も優しく見守ってくれているようでした。

長男と入れ替わりに小学校に入学した三男。我々夫婦にとっては、12年間の小学校生活の締めくくりの卒業式でもあったわけです。

この12年間、たくさんの先生方にお世話になりました。

入学した当時、不安な気持ちもあったのでしょう。些細なことですぐ保健室に行っていた長男。

おっちょこちょいでよく怪我をして、手当をしてもらった次男。鉄棒で鼻頭を打って、「目から血が出た!」と眼科に連れて行ってもらったこともありました。

三男も、怪我や病気で外科や内科に連れて行っていただいたことが何度もありました。

3人とも大好きだった、保健室の先生。

長男が6年生のときの担任で、三男が1年生のときの担任のM先生。

二人とも先生には可愛がってもらいました。厳しい中にも優しさがあって、三男が1年生の担任の時は、子どもたちが可愛くて可愛くて仕方がない、という感じでした。

今はもう退任されていますが、たまにスーパーでお会いすると、うちの兄弟のことを必ず気にかけて下さいます。

次男が6年生のときのK先生。

どの学年の子どもたちからも信頼され、好かれていた先生でした。

朝、通学路の途中まで子どもたちの様子を見に来てくださり、集団登校の列から離れた子に付き添ってくれていました。

異常に?正義感の強い次男は、ケンカをしている友だちの仲裁に入って逆にケンカの当事者になってしまうことが保育園の頃からよくありました。「次男くんが悪い!」と友だちから言われることが多々あって、ケンカの当事者の友だちや次男からじっくり話を聞いてくださって、うまく解決してくれたのはK先生でした。

もともと中学校の校長先生だったK校長先生。

ご本人の希望がかなって小学校に転任されたと聞いています。

本当に子どもたちのことが大好きで、子どもたちからも好かれた校長先生でした。

K校長先生もK先生と一緒に、朝は通学路で子どもたち一人ひとりに声をかけ、遅刻してきた子どもと一緒に登校してくださっていました。

息子たちが所属していたの少年野球チームの土曜日の練習のとき。

K校長先生は、職員室からグラウンドまで降りてきて、練習の様子を目を細めて見てくださっていました。

たくさんの先生方に支えられて、うちの息子たちは小学校を卒業できたんだ、今から思い返すと、そう感じます。

ぼく自身は、この小学校の出身ではありません。

長男が少年野球チームに入部以来、12年間、小学校のグラウンドを使わせていただいていました。

山間の学校の小学校の運動場。野球のグラウンドに最適かというと、決してそうではありません。

雨が降るとすぐに水がたまりぬかるみに。乾くとカチコチに土が固まり、足跡を消すにも、何度もトンボをかけないと平らになってくれませんでした。ゴロゴロした石を含んだ山土。取っても取っても石はいくらでも出てきました。

息子たちが12年間お世話になった小学校は、ぼくが12年間グラウンドと戦った小学校でもありました。

将来の夢

卒業式では、子どもたちがひな壇に整列して、一人ひとり、将来の夢について話す、というシーンがありました。

ぼくは将来、サッカー選手になって、外国のリーグで試合をして、みんなに喜んでもらいたいです。

私は、イラストレーターになって様々な絵を描き、たくさんの人に楽しんでもらいたいです。

みんなそれぞれ夢があって、単に、「サッカー選手」「イラストレーター」ではなく、そうなることによってどうしたいのか?次の展開まで考えていて、感心しました。どの子も、大きな声で、胸を張って、誇らしげだったのが印象的でした。

うちの三男は何を言うんだろう?

幼い頃は「プロ野球の選手」「ヤクルトかオリックスの選手になるねん!」と言っていた三男。

なんで阪神と違うん?という家族じゅうのツッコミをよそに、その思い?は強かったようです。

そんな三男の言動が変わってきたのは5年生になってから。

将来の夢を聞くと「うーん、分からん」と言うようになってきました。

卒業式で彼が言った言葉は、

ぼくの夢はまだ見つかりませんが、見つかったときのために努力したいと思います。

ほほう。

他のすべての子どもたちが具体的な職業をあげて自分の将来の夢、としていたのに対して、「分からん」と言ったのはうちの息子だけでした。

どうせ卒業式だけのことだから、プロ野球選手とか弁護士とか、適当なことを言っておけばいいのに、という考えもあるでしょうが、正直に「ない」と言った息子の勇気をかってやりたいです。

もう1つ、「努力します」という宣言、しかと聞いたぞ。

夢を見つけるために、夢をかなえるために

小学生のときになりたかったプロ野球選手に本当になれるのは、年に何人いるでしょう?ドラフトで入る人、ドラフト外からテストを受けて入る人も含めて、年に100人ぐらいでしょうか?

その中から1軍で活躍できるのは、ほんの、限られた一握りの人だけです。

まだ小さな小学生、それも、夢を膨らませたちびっ子たちに、そんなむごい話を聞かせるようなつもりはありません。

うちの長男と次男、三男よりも年齢が5〜6歳年上の兄たちに、中学生の頃からぼくが言い聞かせてきたことがあります。

夢を見つけるためにも、夢をかなえるためにも、選択肢はたくさんあったほうがいい。やりたいこと、なりたいものが見つかったときに、それができない、それになれないということが一番つらい。やりたいことをやる、つまり、選択肢を増やすためには、しっかり勉強をして、高校、大学に進まなければならない。

三男はそれを聞いていたのかもしれません。天真爛漫、天然だった三男が、思いつめたような顔をしたり、ぼーっと空を見つめたりすすることが、5年生くらいから増えたような気がします。

兄たちが、高校受験、大学受験に進むにつれ、彼の気持ちの中でも「将来どうするか?」ということを考えざるをえなくなってきたのでしょう。

努力すること、したいこと

6年生になるときに少年野球をやめた三男ですが、実は5年生の夏休み明けから練習に行けなくなっていました。

今から考えると、自分の将来を考え始めた頃ではなかったかと思います。

ぼくは今まで野球しかしてこなかったけど、本当はもっとしないといけないことがあるんじゃないか?

そんな風に思ったそうです。

それからは、普通の小学校6年生として生きてきました。

野球のことは忘れて、野球以外の友だちと暗くなるまで遊び、女の子たちと遊びに行ったり、カラオケに行ってみたり。

休みの日は父と釣りに行ったり。

ひととおり普通の小学校6年生がやることはやり終えたと思います。彼の中で満足感が出てきたのだと思います。

中学になったら、何か打ち込まなあかんものがあると思うねん。ぼくは野球しかできへんから、野球やるわ。野球好きやしな。

一度やめた野球ですが、中学校でもう一度やる気になったみたいです。

父母は息子の応援団

中学では野球に打ち込むと言った三男。夢が見つかるまで努力すると言った三男。

道はいくつもあると思う。まだまだいくらでも選べるだろうし、道がなければ自分で作るという手もある。

我々父と母は、君が精一杯努力できるよう、道の選択に悩んだときには相談に乗れるよう、いつでも窓口は開けておこうと思う。

この記事を書いた人

余分なこだわりは捨てる。それがぼくのスタイル。

PHPでWebアプリを作り、小さな花の写真を撮ってよろこんでいる人。元Webエンジニア。プログラミング講師。余分なこだわりを捨てて生きやすくなりたいと思いつつも、なかなかこだわりを捨てきれない頑固者。まろと呼んでください。

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